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情報に僕は強いこだわりを持ってきた。情報と知識と知恵の違いを明確に意識し、情報の体系的取得、使用を心掛けていた。

世の中にはその情報を知っただけで人生が180度変わるようなものも実際にあるし、情報に貪欲になるのは悪くはないと思う。

しかし、最近の僕は情報を持ちすぎていて、新しい情報を得られることが少なくなった。Google検索しても過去に見た記事ばかりだし、他人のブログの新記事もデジャヴを感じるようになっていた。

おそらく、過渡期に来ているのだと思う。

情報、もしくは知識、知恵は、使わないと意味がない。

過去の僕は、情報を自らの選択のための判断材料程度にしか見ていなかった。それはそれで正しいことではある。

だが、情報は思考の材料でもあるのだ。そこを長い間見逃していた。そして思考を軽視していた。

情報は思考の判断材料であり、思考が情報を組み合わせ、オリジナリティを生み出していく。この構造が重要なのだ。

メインブログや他のブログでは情報、知識、知恵、ばかりを伝えてきたが、それではオリジナリティに欠ける。確かに寄せ集まれば価値は生まれるが、それまでだ。

経験も書いてきた。参考書をやったとか、どこどこに行ったとか、そんな日常のことを。これはオリジナリティがあるように見えるが、実際にはそうでもない。同じことを経験してきた人なんて大量にいる。その中の一人に成り下がるだけだ。

だが思考はどうだ。思考は知識の論理結晶とでも言えようが、その組み合わせは無限だ。

ところで、思考とは何だろうか。

まず、思考は情報を思い出すことではない。他で読んだことを自分の思考の産物かのように語る人がいるが、それは情報の横流しであって、思考からはかけ離れている。

すると情報を組み合わせる行為が思考というのがしっくりくるような気がするが、どうもおかしい。思考のようなものを思い浮かべると、情報を組み合わせていないことがあるように思う。チェスをプレイするのに思考が必要か、と言われてNOと答える人は少数だと思うが、実際には直観と判断と記憶に重きを置かれるゲームになっている(受験数学も然り)。偉大な発明だってひらめきによって生まれる。

じゃあ思考とはなんなのか。情報を組み合わせるんじゃないのか。

いや、おそらく情報を組み合わせることで間違いないのだと思う。ただ、その手法が無意識下に置かれることが多いために、一般的に意識的とされる思考が少なくなっているのだ。ひらめきは努力から生まれるという趣旨の有名な言葉があるように、努力が無意識下で組み合わさってはじめて偉大なる発明が生まれる。

では、意識下での情報の組み合わせが思考だとすると、どのようなものが思考になるだろうか。

正直言うと、思い浮かばない。自分の意見を書くのだって、結局無意識下での組み合わせか、単なる思いつきか、他から引っ張ってきただけかだろう。

だから、思考はしなくても生きていけるし、実際それで生きている人はかなり多いと思う。

が、これは直観に近いものだが、思考を自由に使いこなせたなら、何か偉大なことが容易に達成できるだろう。

これが僕を思考の渦に誘いこむものである。

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このhimの裏山では、好きなことを書きます。

前々から自分の好きなことだけをひたすらに書きたいと思っていたのですが、今日やっと踏ん切りがつきました。きっかけは、前にメインブログで紹介した文客堂さんが好きなことを書き続けるようにアドヴァイスされていたのを見たことです。

自己満足でいいから、とにかくひたすら書く。書くために書く。

それを続けます。

なので、一つの記事は短くなるだろうし、変な文章だと思われるかもしれません。

が、そんなことはどうでもいい。

自分の中から出てきた叫びが、良いテキストに変わるのだから。

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どうもこんにちは。himです。

このブログはメインブログ「目指せ東大合格!」の裏ブログということで、そちらでは書けない内容を気楽に書いていこうと思います。

そんじゃそんなわけで、よろしく。