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昨日メインブログの方で「だ・である調」で書いたので、今回はこちらで「です・ます調」で書きます。

昨日、「大学入試をゲームに喩えてみた」というタイトルでメインブログに記事を書いてみたんですが、今読み返してみるとつまらなすぎますね。

でも、こんなつまらないことをしたことにはちゃんと理由がありまして、「勉強法の型を作ってみたい」という思いがありました。型というのは、武術的な型を真似てみたものです。

なぜこんなことをしようとしたかは、別冊マガジンの話にまでさかのぼります(これより下、少々話が脱線します)。僕は進撃の巨人という漫画がとても好きで、最近は別マガを毎月購入するまでになってました。で、当然雑誌なので進撃以外の漫画もあるわけで、その中の「また来てねシタミさん」という漫画を今月になってやっと読み始めたんです。そしたらもうそれは滅茶苦茶面白くてですね、一気にファンになりました(ここで1,2話は無料で読める)。

この漫画では地元の名物で暗殺をする「ご当地殺法」なるものが登場するのですが、その中に「八極拳」で暗殺するというのがあって、「俺もやってやる!」と息巻いて検索してみたんですね。するとビックリしたことに、八極拳を使って人を吹っ飛ばしているではありませんか。

こんな人間が現実にいるのかと驚愕し、このチャンネルの動画をさらに探索するわけですよ。

そしてこの動画を見つけました。自分の意識する場所によって重心がずれ、体重が変わったように見えるというお話です。そこで僕は考えました。

「意識した場所によって重心が変わる。なるほど、武術で精神を重視するのは意識する場所によって動き自体も変化することをちゃんとわかっているからなんだな。意識する場所というのは大抵の人が無意識に決定していることであるから、これをあえて意識化させることによって、どんな人でも適応可能な武術を作ることができるというわけだ。意識の次に来る、武術における型というのも、万人に対して最適な動きを簡便に適用させることができるという理にかなった方法になるわけでもあるな。」

と、ここまで考え、ついにひらめくわけですよ。

「そうだ、勉強法においても武術のようなものが作れるぞ。僕が知らないだけかもしれないが、勉強法にはしっかりと確立され体系化された方法論というものがない。ここで勉強論なるものを作れば、その価値は莫大なものになるだろう。一つの洗練された勉強論を作ってもいいし、流派として既存の勉強法を体系的にまとめてもいい。どちらにせよ将来役立つことは間違いない。」

「じゃあまずは、オリジナルの勉強論を作ることから始めよう。まずは精神的な部分からだ。精神、というより意識する部分だな。意識の場所によって動きが変わるというのはどんなスポーツにも言えることで、これは勉強にも同様なことが言えるだろう。うーん、勉強で意識することか、難しいな。意識する場所というのは目的ということでもある。目的、つまり合格すること、に意識を向ける?やや陳腐だな。もっと本質をえぐり出さないと。そもそも勉強論なんだから勉強しているときの意識でないと困るよな。例えば参考書をやるときの意識とか。うーん。」

「ああ、そうだ。参考書を目的にしてしまっている人が多すぎるんだ。参考書は成績アップのための手段であって、参考書を完成させること自体は真の目的ではない。参考書を終わらせる、理解するということに意識がいきすぎていて、大局的な目標地点を見失っているのだ。いうなれば、ゲームにおいて攻略本を買ってその攻略本自体を徹底的に攻略するという状態。参考書=攻略本、この意識が必要であるのだ。参考書を攻略本と思えば、常に本番の攻略を意識して勉強できるし、意識の仕方としては最上ではなかろうか。」

はい、ここまで考えて、大学入試をゲームに喩えるという奇行に走ったわけです。

「参考書=攻略本」の意識はマジで重要だと思います。武術において意識によって動きが違ってくるように、この勉強法の意識によっても勉強の動きがまるで変わります。

で、この「参考書=攻略本」の意識を考えたわけですが、この後はまったく考えておりません。

どうしましょ。

まあ、ゲームに喩えるのを極めるというのもそれはそれで意味があるとは思いますが、もっと良いのがないかなあって思うんですよね。

うーん。他に思いつかないので、とりまゲームに喩えるのを極めることにしましょうかね。「ゲーム的勉強論」とでも名付けましょう。

ところで、こういう風に武術のように型にはまった方法論を作ることの何がいいかって、気になりますよね。ズバリ、(思考過程でもありましたが)万人へ適用できるということです。どんなに最初の根本的レベルが低かったり、意識の仕方がまずかったとしても、一気に矯正させる力があるのが武術的なものだと思うんです。それを勉強法でもできるかなあ、って話ですね。

あ、そういえば、「参考書=攻略本」の意識が大事という話をしましたが、正確には「参考書=攻略本」を無意識レベルで意識するのが大事という話です。参考書読んでる間ずっと「これは攻略本、これは攻略本、これは攻略本、、」などと考えるわけにはいきませんからね。無意識レベルに思想を染みつけるというわけです。そういう意味で、やはり武術に似ているという感じはありますね。

あとそれと、この話は「また来てねシタミさん」という漫画を起点に始まったわけですが(もっと言えば進撃の巨人から)、少ないところから話を発展させ新しいものを生み出す力というのが頭の良さの一つなんだと思います。2つ前の記事で頭の良さを決める3つの要素の一つとして「抽象度」を挙げましたが、これがまさにそうです。1を聞いて10を知る能力が「抽象化能力」であり、1を素早く理解する能力が「情報処理能力」です。そして無意識下で処理する能力が「並列能力」にあたります。思想を染みつけるというのは並列化という点でも非常に理にかなっていますね。

まあいいや。この「ゲーム的勉強論」を構築しようと思うので、完成まで楽しみに待っていてください。ちゃお!

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眠いので雑文ということにさせてくれ。

前に、疑うことの重要性について書いた。

しかし、こと受験においては、この疑うことはむしろ邪魔になりかねないのである。というのも、受験勉強で求められていることは、既存の知識を素直に吸収し、扱えるようになることだからである。

そこで問題が生じる。受験の学習法に関しては疑いを持って正しい方法を選択しなければならないのに対し、受験勉強中はそうはいかない。

受験生には両極端な技能を扱う力が必要なのである。

僕の経験上、この疑うことと素直に吸収することの共存は難しい。小学生の頃は素直に吸収していた時期があったのだが、そのときはあまり疑いを持っていなかったように思う。対して、今の僕は疑いすぎていて、勉強に少し支障をきたしている。

スポンジのように知識を吸収できる時期があったのだが、そのときは悪い知識が入って来るんじゃないかと恐れて、自らそこから抜け出した。

だが、今思うとその時期は大変貴重だった気がする。おそらく頑張れば当時のようにもなれるだろうが、また同じ道を通っていいものかと迷ってはいる。

勉強法に、大きな違いはあるものだろうか。いや、あるはずなのだが、その差がどれだけ価値あるものなのかというのが問題である。吸収力のある状態で素直に勉強した方が疑うことによって得られるものより大きいかどうかというところだ。

たぶんだが、受験のことのみを考えるなら素直に人の勉強法に従い、素直に知識を吸収していく方が効率が良い。しかし、その後のことを考えたら別である。大学へ入り、研究するようになったならば、今度は知識を吸収するのではなく知識を生成する側になる。そこでは疑うことの方が重要になるだろう。研究じゃなくてもそうだ。社会に出れば、答えのない問に答えるという立場になる。もちろん知識も必要だろうが、それ以上にいかにそれを活用するか、疑うことでいかに差別化できるか、といったところにシフトしていく。また、疑いぬいて考え出したものは一生の財産になり得るし、疑うこと自体が思考に磨きをかけることができるだろう。

ああ、疲れた。

ので、話題を大きく変える。雑文である。

この曲がエモい。

はい。終わり。

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勉強による成績の良さは以下の式で与えられると思う。

成績=時間×頭の良さの二乗

まず時間はいいだろう。時間をかければかけるほど成績は向上する。もちろん指数関数的な成績向上もあるのだが、今回は簡単のため比例するということにする。不満があるようなら対数グラフについて考えていると思っておけばよい。それに、指数関数的な成績向上には、勉強することにより頭が良くなったという要因も含んでいるはず(もしくは年齢による自然なものか)なので、成績が時間のみに関して比例して上がるというのは大きくは間違っていない。

成績は頭の良さの二乗に比例する。なぜなら、頭の良さは単純な勉強の処理速度等だけでなく、勉強法にも影響を与えるからだ。頭の良さによって単位時間あたりの勉強内容の吸収量が違うのはまあ、明らかだと思う。そしてそれと同等に、勉強法も重要なファクターになる。ここで言う勉強法とは、参考書をどれにするとか、暗記の効率の良い方法だとか、そういう誰もが知っている低レベルな話ではない。例えば数学においては、「数学の問題を解くとはどういうことなのか」「何を身につければ点が取れるのか」といったことを理論としてまとめたうえで、最適な勉強法を選択するということである。目標点を取るために必要な能力を個々の技能として分解し、それを踏まえたうえで現在の自身のレベルや特性からして適切な勉強法を考え出し、実行に移していく(これは抽象的「勉強」自体を最適化することについても言えるし、各科目の本質をあぶり出し最適な勉強法を見つけ出すことについても言える)。これに関してはネットや本にもそうそう載っているようなことではないし、それっぽいことが載っていたとしてもそれが本当だと信じているようではダメであり、自分で考え、自分に最適化した方法を編み出さなくてはならない(他人の意見を「参考に」するのならいいが)。

以上より、上記の等式が導かれる。

体感としても大体あっているのではなかろうか。たまに中学生でも東大合格レベルの学力を持った人がいるが、勉強時間が圧倒的に少ない(3年も違う)のにそのレベルに達するのは頭の良さを2回も掛け算していると考えれば納得がいく。逆に、5浪やら10浪やらしても合格できないような人もいるが、それはその人が極端に頭が悪いというわけではなく、頭の悪さが2乗されて目立っているからだと捉えることができる。

ここで、「頭の良さ」の定義を少し明確化しよう。頭の良さが2倍になると言っても、イメージがわきづらい人も多いように思うし、何より最も重要なファクターを向上させる方法が具体的に見えてこない。

頭の良さは次の式により与えられると考える。

頭の良さ=情報処理能力×抽象度×並列度

情報処理能力は、読解、理解、思考などのスピードのことで、多くの人が考える頭の良さとだいたい同じことである。理解速度が2倍なら頭の良さも2倍と考えてよい。

抽象度は、理解や思考でどれだけ抽象的に考えられるかという度合いである。抽象的に考えられればそこで考えたことの適用範囲が広がる。具体的に言えば、数学の問題を抽象化して処理すればある程度未知の問題でも対応できるようになり、具体的なまま処理して類題しか解けないような人間のレベルとは大きな差をつけることができる。抽象度は数値として具体化することが難しいが、ここでは一旦、「抽象化によって適用可能な範囲が何倍に広がったか」を抽象度を測るために用いることにしよう。

並列度は、脳内で同時処理できる数のことである。前の記事にも述べたように、意識下での同時処理は難しく、できたとしても効率はあまり良くはない。そのため無意識下と意識下での同時処理ということになる。歩いていたらふと素晴らしいアイデアが浮かんだとか、そういう話がよくあるが、これはそのときその問題について思索していたから思いついたのではなく、無意識下での何らかの反応によって生み出されたものである。つまり、無意識下での処理はちゃんとなされている。この無意識下での処理を利用することで、意識下との同時処理が可能となる。これについては無意識下のことなのでどれほど並列処理されているのか測りにくいが、意識下と無意識下の処理数の合計を並列度と定めることができる。

これで、頭の良さをどう上げるか少しは明確になったであろう。

時間を増やして成績を上げるのは最も手っ取り早い方法だが、時間は有限なため他との差をつけにくい。他人との圧倒的差を生みたいなら、多少時間はかかっても先に頭を良くした方が効率が良いのである。頭の良さは無限ではないにせよ、場合によっては数十倍、数百倍にすることも可能である。

最後に蛇足になるが、以上の要素はすべてではない。テクニック的な部分もあるだろう。だが、掛け算で増えるような要素は上述の2つだけである。また、量×質(×才能)というような意見もあるが、おそらく時間×頭の良さの二乗と中身はほぼ同じだと思う。定量化のしやすさという観点からいくと、時間×頭の良さの二乗の方が優れているため、こちらを勧めておく。また、「成績」という言葉は少し抽象的なため、「勉強の身についている量」と置き換えて考える方が指数関数的な成績向上を考慮する必要もなく、良いであろう。

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16Personalitiesというものがある。有名な性格診断だ。

今日久しぶりに自分の性格型を見たのだが、驚いたことにそこに書いてあるまんまの性格に戻りつつある(性格型は身バレ防止のため言わないでおく)。「戻りつつ」というのは、つい最近まではわりと人工の性格だったのが徐々に戻り始めているということだ。やはり慣れない性格だと居心地が悪く感じるようである。

そこで思ったのだが、性格は滅多なことでは変わらないので、性格の根本にかかわる考えを変えようとするのは無駄なのではないだろうか。

前回の記事で論理性の重要さを話したのだが、それは僕の性格が論理を重視するということに起因する。

だからある人間の性格が「思考型(T)」ではなく「情緒型(F)」だった場合、僕の論理重視の考えは最初から受け付けないであろうから、「論理性大事だよ」と言っても無駄ということになる。彼らが論理的に考えずに僕の考えを読むのであれば、なおさら僕の考えは彼らの脳に行き届かないだろう。

初めに書いたように、僕は性格、というより脳自体を、いじることがあるのだが、どんなにいじくっても最後には元の場所に帰ってくるのが常だ。

自分自身で性格を完全に変えることでさえ容易ではないのに、どうして他人がほんの数分で変えることができようか。絶対に不可能である(洗脳するという手はあるにはあるが)。

そんなわけで、今まで他人の性格を変えるということを少しは(無意識に)意識していた感があったのだが、これからはそんな無謀なことはやめて、ただただ自分が喜ぶ記事を書くようする。

人は変わらないからシステムを変えるべきというような言葉が進撃の巨人にあったように思うが、本当にそうだと思う。自分の意見を通したいなら、自分の信念を貫くより、相手の性格が喜びそうな言い方をする方がいいだろう。本気で性格を変えるのは個人でどうこうできることではないし、できたとしたらそれはもはや洗脳である。まあ、洗脳を極めるというのも面白いお話だとは思うが。

そういえば洗脳と言えば、最近自己洗脳をしようか迷っている。自己洗脳して受験楽勝モードにすることもできるのだが、何しろ反動が激しいので悩みどころだ。前に自己洗脳したときは自己洗脳したこと自体を忘れていたので1年くらい洗脳にかかりっぱなしだった。どんなにメリットばかりに見える洗脳内容でもデメリットはあるので、もし実行することになれば利点欠点をあぶり出してからにしたい。

まあいいや。とりあえず以上のことをまとめると、人は変わらないから自分が変化して対応しましょう、という感じでしょうかね。ま、よくある考えだわな。だが先人の考えをただ読んで吸収したときと自分で編み出したときとでは全くと言っていいほど理解度が違うので、それでもいいとは思う。そもそも先人の考え自体が精査すべき対象であるから、同じ道を通るのは当然のことと言えるだろう。

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2つ前の記事で何でも信じるのは宗教じみているという話をした。

特に若者に多いと思うのだが、テキストになっているものをひたすらに信じ切ってしまう人が一定数おり、そのようなには人の真似はせずにちゃんと疑いを持って読みましょうという陳腐なお話だ。

だがあえてここは掘り下げさせてもらう。

今回は逆の立場でだ。つまり、疑いを持つことの問題点についてである。

経験から話を進めることになるが、自分には疑いのしすぎで悪影響を受けたことがある。どんなことにも疑問を持ってのぞむようになると、次第に究極的なところまで疑問を持つようになっていた。「果たして生きている意味はあるのだろうか」などはまだいい方で、疑問を持つこと自体に疑問を持つという自己言及に入り、さらに進んで思考自体に疑問を持つようになる。そして僕は一時期思考を実際に捨てていた。また、疑いすぎたことで世界が嫌になっていた。どんなに当たり前に思えることでも徹底的に疑ってかかることで、いかに世界が、人間が、間違っているかということを思い知り、人が嫌いになっていた。

なぜこんな記事を書いているかって、今同じ道を歩みかけているからなのだ。人生は螺旋階段で、同じ道を通っても少し上にいるというのを読んだことがあるのだが、まさに今そうなっている。というより、ここ数年はずっとそんな感じで嫌気がさしている。

そして今の進歩した自分から言えることは、疑うなら徹底的に疑って、疑わないならまったく疑うなということだ。世の中には頭の弱い人間が少なからずいる。自分の生れ出た環境を疑いもせず、ただまわりの動きに乗せられてそのまま死ぬような人間だ。僕はそういう人生も悪くはないと思う。知れば知るほどわかるのだが、無知と全知がもっとも幸せなのだ。疑うことがなければ知ることも少ないだろう。それと同時に、疑えば知ることも増える。メインブログの方で頭の良さが変動するという話をしたが、やはり一番頭の良いときが一番生きていて面白い。だからこそ僕は極端にも疑いを常に持ち続けるようになるのだ。その代償は前述のようにもちろんあるが、得るものの方が大きいと自分の中で結論づけている。

ところで最近、論理が一番「強い」と感じるようになった。心がどうとか魂がどうとか言っている人間がいるが、それを論理で説明できない限り、論理的世界にはいつまでたっても勝てない。論理で説明できるのなら心や魂などという非常に曖昧な言葉を使うのは論理的ではないし、論理性もなくそんな言葉を使っているのであれば根拠なしの空論ということになる。だから最近はできる限り論理的に考えるようにしている。「昔から言われているから」とか「権威ある誰々が言っていたから」とかいう根拠にならないものはしっかり疑ってかかっている。

疑うことは知ろうとすること。そんなような言葉がライアーゲームにあった気がする。疑うことは失礼なことではなく、相手を知ろうとする立派な行為だって。

まずは疑うことが本当に悪いことかどうか、疑ってみるのが良いだろう。

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好きなことを書くと言ってスタートしたこの裏ブログだが、結局のところしっかりした記事を書こうと思ってしまっている自分がいる。

好きなことをただ書いても、内容が薄くなって、それは自分にとって「好きな記事」にはならない。

だから自分が満足できる記事に落ち着くようになる。

だが満足できる記事は好きなことを書いているとは限らない。

僕の「好きな記事」は自分の知識の境界線に位置するような内容の記事だ。自分の知っていることをそのまま書いているような記事はまったくワクワクしないし、自分の知らないことは書きようがないから、自然と自分の知っていることと知らないことの間にあたるものを書くことになる。そう、今だってそうだ。自分が現在進行形で考えていることをそのまま書く、それが自分のしたいことになる。

しかし、境界線上の知識はまとまりを欠くという問題がある。

つまり、まとまったものを書きたいが、自分のすでに知っていることは書きたくないという、板挟み状態にあるのだ。

この妥協案として、自分が考えたばかりのものを書くという手がある。考え終えたならまとまっているし、自分の中での知識の最先端でもあるはずだからだ。

だがしかし、考えが完全にまとまるというのは稀だ。僕の最も書きたいものは論理体系のしっかりした知識群だが、そんなものは簡単にはできない。

ではどうすればいいのか。

今のところの結論としては、今回の記事のように、手探りで書いていくしかないように思う。実を言うと、今回の記事は書き始めたときから何を結論に持っていくか自分でもわからなかった。それでも書き続けたのは、書かなければならないという気持ちがあったのは確かであるが、それとともに、書いているうちに何かがまとまっていくのではないかという思いもあった。

まあ、今まで通りということだわな。

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2つ前の記事で、「思考」を「意識下で知識を組み合わせること」だという定義のもと話をした。

が、よく考えてみたらそんなことは不可能、もしくは効率が悪いような気がする。

そのことを説明するため、まず意識についての認識を共有したい。

意識は無意識から来ている。何か考えが浮かんだとして、それは無意識下での何かしらの反応により意識に投下されたものである。意識に浮かぶ前段階がすべて意識でつながていることはあり得ないし、これは体感でわかる。

つまり、意識と無意識は相互作用する存在なのだ。

そのを念頭に置いたうえで考えたい。意識下で知識の組み合わせが可能かどうかを。

まず、人は基本的に一度に一つのことしか考えられない。頭の中で2つ以上の声を「同時に」出すなど至難の業だし、できたとしても明らかに効率が悪い。だがそれを補うために作業記憶がある。作業記憶にあるものを意識下にあるとするのが正しいかはともかくとして、作業記憶にある知識と現在実際に浮かんでいる知識とを結びつければ、「思考」が可能になるのだ。しかし、それで良いアイデアが浮かぶかは正直疑問が残る。

やはり意識は無意識の助けのもと知識の組み合わせを行った方が効率が良いように感じるのだ。意識下に浮かんだことの繋がりとして適切なものが勝手に無意識下から投下され、意識があたかも「自然に」思考ができているように見えるようになる。この流れは「無意識」という意識にとってのブラックボックスを経由するため一見最適な方法ではないようだが、無意識下が脳の機能として存在する以上、使った方が脳全体のリソースの無駄遣いをしなくて済むように思う。

だがしかし、それだと思考過程に自らがコントロールできないものが存在することになり、思考を最適化しようとする者にとって非常に厄介になる。

では、無意識下を意識によってコントロールする術を編み出すべきではなかろうか。完全なコントロールなどできようもないが、無意識下のパターンをある程度まで操作するのは不可能ではない。

そもそも、意識と無意識は相互作用なのであるから、操作はいつもしていることではある。それが無意識優位での操作だったとしても。

僕が考えたのはここまでだ。

無意識下の操作方法、もしくは最適化について現在模索中である。

これについては非常に難しい問題であるため、一旦は保留とし、次回以降の記事の話題は別のことにしよう。

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ビットコイン分析の要望が出ていたので、軽くしてみる。

まず最初に言っておくが、今の僕のビットコインに関する知識量では既存の意見が正しいかどうか判断するのがやっとであって、まだネットにはない新しい知見を提供することはできないので、そこには留意していただきたい。また、その判断も間違っている可能性は十分にある。誰かの意見をそのまま信じるのは宗教のようであるし、そんなことしてないで疑う姿勢を持ってほしい。ただ、疑うのを条件反射のように行うのは「僕の経験上」そこまで良いものではないということも言っておく(これに関してはさらに深く考察できそうなので、今後記事にするかもしれない)。

では、まずビットコインの将来の価格についてだが、1年半以内に少なくとも今の2倍にはなると予想する。

理由は実は他のブログに完全に依拠しているので、オリジナリティのかけらもないわけだが、こと投資においてはそんなことは関係のない話であると思うので、それでもいいことにしておこう。

そのブログはこちら。

正直僕ができるのはこのブログを紹介することぐらいだ。

自分で意見を組み立てるより他人の意見をインプットする方がずっと速いし楽で、もしできるのであればそうした方がいい。

しかし、僕は情報を吸収しすぎているので、昨日の記事の流れにいきつくわけだ。

なので、まだ情報収集の済んでいない方は、今の段階ではまだ、情報の収集とその正誤判断に努めるべきだと思う。まあ、適度に練習するのはいいことだとも思うが。

ところで、このhimの裏山だが、毎日更新するのでは気楽にはいかないので、不定期更新ということにしたい。

昨日あの記事を書いて、自分の考えるべきことがいかに多く、難しい話題であることかわかった。勉強で疲れた頭で考えるには1日では短すぎる。

ビットコイン分析ということだったが、話がそれてしまったな。なので投資について少しだけアドヴァイスしておくと、毎日のチャートの動きに一喜一憂しているようなら投資はやめた方がいい。毎日見ること自体は問題ないし、むしろそうすべきだとは思うが、毎日の動きに感情を動かしていては長期的視点を失ってしまう。

はあ、またつまらん記事を書いてしまった。次回以降は好きな記事を書けるようにするよ。

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情報に僕は強いこだわりを持ってきた。情報と知識と知恵の違いを明確に意識し、情報の体系的取得、使用を心掛けていた。

世の中にはその情報を知っただけで人生が180度変わるようなものも実際にあるし、情報に貪欲になるのは悪くはないと思う。

しかし、最近の僕は情報を持ちすぎていて、新しい情報を得られることが少なくなった。Google検索しても過去に見た記事ばかりだし、他人のブログの新記事もデジャヴを感じるようになっていた。

おそらく、過渡期に来ているのだと思う。

情報、もしくは知識、知恵は、使わないと意味がない。

過去の僕は、情報を自らの選択のための判断材料程度にしか見ていなかった。それはそれで正しいことではある。

だが、情報は思考の材料でもあるのだ。そこを長い間見逃していた。そして思考を軽視していた。

情報は思考の判断材料であり、思考が情報を組み合わせ、オリジナリティを生み出していく。この構造が重要なのだ。

メインブログや他のブログでは情報、知識、知恵、ばかりを伝えてきたが、それではオリジナリティに欠ける。確かに寄せ集まれば価値は生まれるが、それまでだ。

経験も書いてきた。参考書をやったとか、どこどこに行ったとか、そんな日常のことを。これはオリジナリティがあるように見えるが、実際にはそうでもない。同じことを経験してきた人なんて大量にいる。その中の一人に成り下がるだけだ。

だが思考はどうだ。思考は知識の論理結晶とでも言えようが、その組み合わせは無限だ。

ところで、思考とは何だろうか。

まず、思考は情報を思い出すことではない。他で読んだことを自分の思考の産物かのように語る人がいるが、それは情報の横流しであって、思考からはかけ離れている。

すると情報を組み合わせる行為が思考というのがしっくりくるような気がするが、どうもおかしい。思考のようなものを思い浮かべると、情報を組み合わせていないことがあるように思う。チェスをプレイするのに思考が必要か、と言われてNOと答える人は少数だと思うが、実際には直観と判断と記憶に重きを置かれるゲームになっている(受験数学も然り)。偉大な発明だってひらめきによって生まれる。

じゃあ思考とはなんなのか。情報を組み合わせるんじゃないのか。

いや、おそらく情報を組み合わせることで間違いないのだと思う。ただ、その手法が無意識下に置かれることが多いために、一般的に意識的とされる思考が少なくなっているのだ。ひらめきは努力から生まれるという趣旨の有名な言葉があるように、努力が無意識下で組み合わさってはじめて偉大なる発明が生まれる。

では、意識下での情報の組み合わせが思考だとすると、どのようなものが思考になるだろうか。

正直言うと、思い浮かばない。自分の意見を書くのだって、結局無意識下での組み合わせか、単なる思いつきか、他から引っ張ってきただけかだろう。

だから、思考はしなくても生きていけるし、実際それで生きている人はかなり多いと思う。

が、これは直観に近いものだが、思考を自由に使いこなせたなら、何か偉大なことが容易に達成できるだろう。

これが僕を思考の渦に誘いこむものである。

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このhimの裏山では、好きなことを書きます。

前々から自分の好きなことだけをひたすらに書きたいと思っていたのですが、今日やっと踏ん切りがつきました。きっかけは、前にメインブログで紹介した文客堂さんが好きなことを書き続けるようにアドヴァイスされていたのを見たことです。

自己満足でいいから、とにかくひたすら書く。書くために書く。

それを続けます。

なので、一つの記事は短くなるだろうし、変な文章だと思われるかもしれません。

が、そんなことはどうでもいい。

自分の中から出てきた叫びが、良いテキストに変わるのだから。