疑う

2つ前の記事で何でも信じるのは宗教じみているという話をした。

特に若者に多いと思うのだが、テキストになっているものをひたすらに信じ切ってしまう人が一定数おり、そのようなには人の真似はせずにちゃんと疑いを持って読みましょうという陳腐なお話だ。

だがあえてここは掘り下げさせてもらう。

今回は逆の立場でだ。つまり、疑いを持つことの問題点についてである。

経験から話を進めることになるが、自分には疑いのしすぎで悪影響を受けたことがある。どんなことにも疑問を持ってのぞむようになると、次第に究極的なところまで疑問を持つようになっていた。「果たして生きている意味はあるのだろうか」などはまだいい方で、疑問を持つこと自体に疑問を持つという自己言及に入り、さらに進んで思考自体に疑問を持つようになる。そして僕は一時期思考を実際に捨てていた。また、疑いすぎたことで世界が嫌になっていた。どんなに当たり前に思えることでも徹底的に疑ってかかることで、いかに世界が、人間が、間違っているかということを思い知り、人が嫌いになっていた。

なぜこんな記事を書いているかって、今同じ道を歩みかけているからなのだ。人生は螺旋階段で、同じ道を通っても少し上にいるというのを読んだことがあるのだが、まさに今そうなっている。というより、ここ数年はずっとそんな感じで嫌気がさしている。

そして今の進歩した自分から言えることは、疑うなら徹底的に疑って、疑わないならまったく疑うなということだ。世の中には頭の弱い人間が少なからずいる。自分の生れ出た環境を疑いもせず、ただまわりの動きに乗せられてそのまま死ぬような人間だ。僕はそういう人生も悪くはないと思う。知れば知るほどわかるのだが、無知と全知がもっとも幸せなのだ。疑うことがなければ知ることも少ないだろう。それと同時に、疑えば知ることも増える。メインブログの方で頭の良さが変動するという話をしたが、やはり一番頭の良いときが一番生きていて面白い。だからこそ僕は極端にも疑いを常に持ち続けるようになるのだ。その代償は前述のようにもちろんあるが、得るものの方が大きいと自分の中で結論づけている。

ところで最近、論理が一番「強い」と感じるようになった。心がどうとか魂がどうとか言っている人間がいるが、それを論理で説明できない限り、論理的世界にはいつまでたっても勝てない。論理で説明できるのなら心や魂などという非常に曖昧な言葉を使うのは論理的ではないし、論理性もなくそんな言葉を使っているのであれば根拠なしの空論ということになる。だから最近はできる限り論理的に考えるようにしている。「昔から言われているから」とか「権威ある誰々が言っていたから」とかいう根拠にならないものはしっかり疑ってかかっている。

疑うことは知ろうとすること。そんなような言葉がライアーゲームにあった気がする。疑うことは失礼なことではなく、相手を知ろうとする立派な行為だって。

まずは疑うことが本当に悪いことかどうか、疑ってみるのが良いだろう。

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Posted by urahim