雑文
眠いので雑文ということにさせてくれ。
前に、疑うことの重要性について書いた。
しかし、こと受験においては、この疑うことはむしろ邪魔になりかねないのである。というのも、受験勉強で求められていることは、既存の知識を素直に吸収し、扱えるようになることだからである。
そこで問題が生じる。受験の学習法に関しては疑いを持って正しい方法を選択しなければならないのに対し、受験勉強中はそうはいかない。
受験生には両極端な技能を扱う力が必要なのである。
僕の経験上、この疑うことと素直に吸収することの共存は難しい。小学生の頃は素直に吸収していた時期があったのだが、そのときはあまり疑いを持っていなかったように思う。対して、今の僕は疑いすぎていて、勉強に少し支障をきたしている。
スポンジのように知識を吸収できる時期があったのだが、そのときは悪い知識が入って来るんじゃないかと恐れて、自らそこから抜け出した。
だが、今思うとその時期は大変貴重だった気がする。おそらく頑張れば当時のようにもなれるだろうが、また同じ道を通っていいものかと迷ってはいる。
勉強法に、大きな違いはあるものだろうか。いや、あるはずなのだが、その差がどれだけ価値あるものなのかというのが問題である。吸収力のある状態で素直に勉強した方が疑うことによって得られるものより大きいかどうかというところだ。
たぶんだが、受験のことのみを考えるなら素直に人の勉強法に従い、素直に知識を吸収していく方が効率が良い。しかし、その後のことを考えたら別である。大学へ入り、研究するようになったならば、今度は知識を吸収するのではなく知識を生成する側になる。そこでは疑うことの方が重要になるだろう。研究じゃなくてもそうだ。社会に出れば、答えのない問に答えるという立場になる。もちろん知識も必要だろうが、それ以上にいかにそれを活用するか、疑うことでいかに差別化できるか、といったところにシフトしていく。また、疑いぬいて考え出したものは一生の財産になり得るし、疑うこと自体が思考に磨きをかけることができるだろう。
ああ、疲れた。
ので、話題を大きく変える。雑文である。
この曲がエモい。
はい。終わり。
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